国を憂うより愛を語ろう(私信)

納めるべき税金を1円でも合法的に安くしようと、知恵を絞る人
は大勢いるが、国のため居住地域のため1円でも多くの税金を
納めようと、意識して働いている人に出会ったコトは今まで1度
もない。教育現場の現状はよく知らないケド、80年代-90年代初
め頃までのクレージーな管理教育よりはマシであろう。

バブルの頃、フリーターは役者やミュージシャンを目指す若者が
組織に縛られぬ働き方として、派遣社員はキャリアウーマンが
一流企業でスキルを磨く働き方として脚光を浴びた。
だが今は、数年前の就職氷河期時に正社員になれなかった若者、
リストラで正社員の職を失った人が、やむを得ずそういった就業
形態で働いている方が大半だと見受けられる。
彼らは、同情すべき社会的弱者なのである。

それでも不遇にめげず、真面目に一生懸命に自分の仕事をしている
コトは正社員と何ら変わらない。と、信じている。
それゆえ、彼らを亡国の徒として糾弾する意見に同意するコトは
出来ないのである。さらには彼らの背後には太平洋戦争の犠牲者が
居て、意図的に国力の弱体化=国家への復讐を行わせている。と
いう説は、英霊に対しても失礼であり、腹が立つのを通り越して
悲しくなってしまった。と、言わざるを得ません。
よしんば、それが復讐であったとして、その程度の復讐で潰れる
ような国ならば、潰れればイイとすら思うのである。
しかし、日本は明治維新(1868)と終戦(1945)で従前の価値観
が180度転換したが、大多数の一般国民はそれに素早く順応して
いる。身も蓋もない言い方をすれば、一般国民には天下国家のコト
よりも己の生活が大事なのだという話であり、好意的に解釈すれば
日本人は国家の形態がどのように変わろうとも、順応する能力が
あるのだ、とも言える。

世相を嘆き国の将来を憂いるのは、もちろん悪いコトではない。
時には大事な資質となる。しかしながら個人の力で社会を変革する
のは、大変困難な話であり、時流に逆らって生きるのも非常に
しんどいコトである。そうであるならば、自分と家族あるいは
愛する人が幸せになるために、知恵を絞るコトの方が重要であろう
と、思わずにはいられないワケである。(了)